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聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士  St. Joannes Chrysostomus Patriarcha   記念日 9月 13日


 紀元438年1月27日の晩の事である。東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルの海岸には、何十万という人々が手に手に松明を振りかざして、物々しく詰めかけていた。海上にも星の降ったように、点々と輝いているのは、数多の船に焚いてある篝火なのである。やがてそれらの船に迎えられて、また幾艘かの船が港へ入って来た。そしてそれから上陸したのは幾百人とも知れぬ司教司祭達や男女の修道者等で、その中の数人は深い哀悼の沈黙の中に、石の柩を担いでいる。
 その時浜辺に立つ人々の中から、その前へつと進み出た美服威容の人があった。彼は跪いてその柩に額を押し当て、恭しく敬意を表した後、沈痛な声で言うのであった。
 「ああ聖ヨハネよ、吾東ローマ帝国の皇帝テオドシオ、ここに謹んで卿が御霊にこいねがい奉る。卿を苦しめし我等の罪を赦し、我等の為天主に執り成し給わん事を!」
 間もなくコンスタンチノープルの大聖堂へその柩を送る悲しみの行列は、えんえんとして長蛇の如く、粛々と練って行った。この聖人は誰あろう。かつて同市の総主教を勤め、後誤解を受けて追放され、その3年後小アジアの北、黒海のほとりで客死した、当時の名だたる教父であり、かつ比類なき雄弁の為にクリゾストモ(金口)とあだ名された、聖ヨハネに他ならないのである。
 彼は紀元354年2月、シリア国のアンチオキア市に生まれた。両親とも極めて信心深かったが分けても敬虔な心を持っていた母親はヨハネのようやく三、四歳の頃夫に死なれたけれど、我が子の宗教教育にには深く意を用い、言葉を以て行いを以て彼を教え導いたから、彼も幼いときから敬神の念極めて厚く、つとに我が身を天主に献げる決心をしたという。
 実際ヨハネの母聖アンツーサは、聖兄弟バジリオ及びグレゴリオの母聖エンメリオや、ナジアンズの聖グレゴリオの母聖ノンナなどのように、すぐれた人物の母たるべき自然的、並びに超自然的素質を恵まれていた。即ち智慧明らかに意志堅く、愛情深く信仰篤く、高い教養を有すると共に実際的な分別にも長じていたのである。さればその愛児ヨハネが少年時代から天主の御聖寵を豊かに蒙り、善徳の道に秀でていたのも偶然ではないと言えよう。
 彼は当時の習慣に従って18歳の頃洗礼を受け、その後3年間神学を勉強し、聖職者に決心をしたが、友人の聖バジリオと共にまず山修士のような生活をしたいと思い、母親と別れようとした。しかし深くヨハネを愛していたアンツーサは到底彼を手放すに忍びないと言うので、彼も已むなく一時その企てを思い止まり、我が家にあって母に孝養を尽くす傍ら、修道の業にいそしんでいた。
 その内に母も美しい臨終を遂げたので、今は後顧の憂いもなしと、彼は多年の希望の実現に着手し、まずアンチオキア市に程近い山中に籠もって、4年間他の修道者等と厳しい克己の生活を営んだが、それでもまだ足れりとせず今度はエジプトのテバイスの山修士に倣い、更に二年間荒れ野に遁れて独り祈りと苦行に身を委ねた。けれども彼は決して本末を謬るような事はなかった。それは彼がよく「不眠徹宵や断食が貴いのである。すべての苦行はこの愛の焔をいよいよ盛んにする手段としてのみ意義があるのである」と言った事実からも明らかであろう。なお彼はこの間に旧約、新約両聖書をことごとく諳んずるまでに反復熟読し、その深遠な意味に就いて暁る所が頗る多かったそうである。
 さて前後6年にわたる苦行の後、ヨハネはわが体力のかように峻厳な生活に適せぬ事を悟り、再びアンチオキア市へ帰った。すると同市の司教メレチオは彼が学徳にすぐれている天晴れな人物である事を知って、彼に助祭の聖職を与えたのである。
 今まで謙遜におおわれていたヨハネの善徳と学識とが、燭台の上に置かれた灯火のように、燦然とあたりを払って遠国までも輝き渡ったのは、この時からであった。彼は助祭として主に慈善博愛の方面に活躍し、また著述の方面に於いても優れた業績を示した。それで4年の後司教は、まだその器にあらずとして久しく叙階の秘蹟を固持していたヨハネをいよいよ司祭の位に挙げ、アンチオキアの大聖堂の主任説教者とした。
 かようにして彼の比類なき雄弁は思いのままに発揮される事になり、先に6年の修養時代に営々として築き上げた聖書知識のうんちくは、そのいわゆる「金口」より尽きせぬ泉の如くこんこんと迸り出て、信者等に対し或いは誡め、或いはすすめ、或いは慰め、遺憾なく善導の効果を挙げる事が出来たのであった。そして殆ど使徒聖パウロの生まれがわりかと疑われるこの博識宏辞の聖者の名は、たちまち四方に喧伝されるに至ったのである。
 されば397年コンスタンチノープルの総主教ネクタリオが没すると、皇帝アルカディオの宰相であるオイトロビオは、辞を低くして彼にその後任たる事を願い、その為にわざわざ皇帝の御馬車を差し向けるという破格の禮を以て、彼をアンチオキアから首府に迎えた。しかしこの大いなる名誉が、彼にとって茨の道の入り口であったとは誰が予想し得たであろう。
 第4世紀に起こったアリオ派の異端は、聖会の内に害毒を流す事甚だしく、聖職に携わる人々の中にさえ、その毒に犯されて使徒時代の熱烈な信仰と素朴な精神を失い、奢侈贅沢に流れたり冷淡に陥ったりする者が見出されるようになった。日頃厳しい修道生活に慣れているヨハネがこれを慨嘆せぬ筈はない。彼はせめて自分の主教座なるコンスタンチノープルに於いてだけでも右の悪弊改革の実を挙げたいと思い、豪奢な催しをしたり立派な邸宅を建てたりする代わりに、旅人の宿泊所や病人の収容所などを設け、身を以て範を示したのである。
 けれども彼のこういう心がけややり方は、時弊に染んだ数多の人々の反感を買わずにはいなかった。彼等は口を揃えて聖人を攻撃し、司教司祭等の中にすら彼に不満を持つ者があった位である。その上ヨハネは他人に誡むべき所があれば遠慮なく誡め、宮中の女官等に対しても仮借する所なく、皇后オイドクシアび向かってさえ、ある寡婦の財産に関する問題で直言して憚らなかったから、遂に皇帝や皇后の不興を蒙り、それにつけ込んだ異端に加担する教職者や有力者の運動が効を奏し、彼は首府から追放されるという悲運を招くに至った。ああ、これは先にこの市に迎えられた名誉の時に比べて、何という悲惨な恥辱であろう!彼自身も浮き世の名誉の煙のような空しさに、必ずや感慨の新たなる者があったに相違ない。
 しかし彼がその恥辱を受けると間もなく、突如大地震が起こり、皇后の身にも急に不幸が降りかかって来たので、オイドクシアは之こそ天罰であろうと怖じ恐れ、一度はわが非を悔いて聖人を呼び返したものの、更に彼女の祈念碑の除幕式の時、ヨハネが余りのお祭り騒ぎをたしなめたのを根に持ち、再び彼を都から、遠いアルメニアへ追放してしまったのである。
 聖人はいよいよ捕縛される時、わが主教座大聖堂で最後の祈りを献げ、「私は善き戦闘を戦い、走るべき道を走り終えました。私はもはや再び貴方がたにお目にかかる機会もないでしょう。最後に当たり私は皆さんが時々私の為にも一片のお祈りを献げて下さるようにお願いしたいと思います」と悲壮な告別の辞を信者等に残し、夜に入ってから遠く異境に連れ去られたのであった。
 最初に彼が流されたのは人跡稀なククソという山中であったが、彼はそこからなお書簡を以て善き信者達を励ましたり慰めたりして、信仰の為に力を尽くした。所がそれが又迫害者の忌諱に触れ、彼は更に淋しい、更に気候の悪い黒海のほとりコマナという所へ流される事になった。ヨハネはそこへ遷される途中今まで積もり積もった心労が一時に発して遂にたおれ、「ああ天主よ、万事に於いて御身に光栄あれ!」という言葉を最後に、流謫の地から懐かしい天つ故郷に帰ったのである。時に407年9月14日の事であった。
 爾来星霜を経るここに1500年、聖人の肉体は朽ち果てたかも知れぬが、その金口より発せられた不滅の言葉は今も書物の上に残って、迷える者に対し正しき道を照らす炬火となっている。

教訓

 クリゾストモの聖ヨハネは、天主より託された任務を忠実に果たす為に、生命までも献げた感ずべき模範である。我等はその貴い責任感に対し深い尊敬を払うと共に、自らも主に忠実を尽くしてわが務めをよく守り、たとえその為苦痛を感ずる事があっても「ああ天主よ、万事に於いて御身に光栄あれ!」と祈りつつ、甘んじそれを犠牲として献げよう。